「般若の里全景」へのリンク画像 人間勉強道場自然の泉福祉の理想郷「般若の里」には総合本庁、医療法人「宇部第一病院」、老人保健施設、認知症専門棟、社会福祉法人軽費・特養老人ホーム「アスワン山荘」、青少年研修センター、「いで湯の森温泉」などがある。

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心の平和は力の源泉なり

 末法の世か―と、問いかけたくなるような不安定、混迷の時代である。
現代ほど、自然の泉が開現以来説き続けてきた「心の平和、平安」が望まれる時代はない。科学文明の進歩、物質文化の発展を求めるあまり、物質的な豊かさと利便さを欲求し、最も大切な心の平和、平安を忘れていないだろうか。
 物質的に豊かになり生活が利便になることは、決して悪いことではない。
 だが、物が豊かになり生活が利便になった半面、人々の心に大きなゆがみが生じているのも事実だ。「人生に行き詰まりはない。行き詰まるのは心である」と、チエの言葉が諭しているように、現代人は物質的な豊かさを求めるあまり、自分だけの幸せ、自分さえよければいいという、他人を陥れ、他人が不幸になることに快楽を覚える心の"地獄人間"がいる。他人を蹴落としても自分だけを守ろうとして親切・感謝・笑顔を忘れ、心の行き詰まった自己中心的な人間が、少なくない。
 夫婦の不和、離婚、親子の断絶、子供の非行、引き込もりといった家庭崩壊の問題から仕事の不満、事業、商売などの不振、職場の上下関係の不信、同僚との憎しみ、男女間のもつれ、さらには常識では考えられない悲惨な事件などが、心が行き詰まった現代人の姿を表徴している。
 心が行き詰まると、どうなるか。
 それがストレスとなって、ドブ川のガスのように、やがて胸中に充満しウップンとなって爆発する。たとえば、企業や団体といった組織では人間関係の水面下で足の引っぱり合いといったウップン晴らしがあるという。さらにウップン晴らしが高じると濡れ衣、でたらめ、でっちあげといった冤罪事件、また相手をおとしめる脅迫、迫害といった事件が起こっている。
 現実に通勤の満員電車内で、痴漢に間違われた男性は、無実を主張しても認められず裁判に訴えた。結果として無実となったが、その間、男性は職場を失い世間の好奇の目にさらされ、言葉にできない迫害と屈辱に耐えたのである。莫大な費用と時間をかけて、たとえ無実を勝ち取っても、心は癒されない。
 しかし、だ。現象世界は矛盾、無常であっても、内なる自己の生命の中心"信"は福徳円満完全そのものである。
 これのみ信じ親切・感謝・笑顔の誠と努力を尽くして、生きていくよりほかにない。

頼る、縋る、願う信仰を断つ

 自然の泉は、開現以来四五年になる。
 その初めから「心の平和は力の源泉なり」と、心の福祉の大切さを訴え続けてきた。
 また、罰や因縁、祟り、霊の障り、方角といった霊感祈祷信仰を否定し、頼る、縋る、願う信仰を断てと説いている。
 毎月発行している自然の泉誌・紙にも「不安定な時代です。家族が手をたずさえ精神衛生に十分注意し、焦らず、落ち着いて頑張っていきましょう。精神不安定の症状、あるいは依頼心が強く盲目信仰にしてのぼせる、情緒不安定の症状があれば、風邪の治療を受けるような気持ちで、一刻も早く専門の精神神経科医に相談しましょう。万一上記の症状が現われた場合自然の泉の行事活動を休み治療に専念します」
と、明記している。
 人間なら、誰もが失敗も挫折もない、順風満帆の人生を望むはずである、だが、この世に完璧な人間がいないように、何も問題のない完全な人生なぞ、あるはずがない。
 洋の東西を問わず、何事かを成し遂げた人間は、すべて順風満帆の人生を送ったわけではない。むしろ逆に、これでもか、これでもかという過酷な試練に耐えて、自らの信じる道を歩いたのである。
 何事かを成そうとする人間について、中国の戦国時代に思想家として活躍した孟子は、「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労す」という言葉を残している。天が、ある人間に大きな任務を与えようとするとき、まずさまざまな試練を与え、その人間の意志を試し、肉体を苦しめるという意味である。
 政治家、学者、芸術家など現代にまで名を残し業績をたたえられる人々は、すべて天から与えられた試練に耐えた人間である。
 なかでも衆生済度の大使命のために立ち上がられた釈迦、キリストをはじめ法然、親鸞、日蓮、さらには蓮如など、真理求道の先覚者たちが受けた迫害という試練の過酷さは、歴史が証明している通りである。
 釈迦は濡れ衣、でっちあげ、いやがらせとあらゆる迫害に耐え、キリストは十字架にかけられ、また法然と親鸞は流罪という迫害を受けられたことはよく知られている。また、天理教の開祖中山ミキは弾圧、投獄された。
 ことに日蓮は、二度も命を落としそうになるという迫害を受けられている。衆生済度のために文字通り身命を投げ出された剛毅な日蓮も、あまりに激しい迫害に疑問を抱いた。
「神仏に守られているはずなのに、なぜ迫害に遭うのか」―日蓮自身と同じ疑問を、信徒たちも抱いた。信徒たちも悩んだが、それ以上に日蓮自身が悩み、苦しんだ。そして、ついに「仏の使いとして真理を説く大使命を持って、この世に生まれた者は、さまざまな苦難、迫害を受ける」という仏典の一説によって、日蓮の疑問は解けたのである。
 真理は、ある。頼る、縋る、願う信仰を断つ、あるがまま素直、そこに生きている。

心丈夫に快活に生きる

 顧みれば、昭和三五年、自然の泉は山口県宇部市の一隅にわずか三畳のバラック小屋から始まったのである。
 心の平和、平安を求める人々が人間勉強を学んでいくうちに、感謝の心を養い幸せを味わう"心の福祉"の場を望む会員たちの発意の輪が広がり、誰いうとなく「わずかな灯でよい、何かを残して人生を卒業したい」という意欲に共感された皆さんによって、昭和四二年、宇部市に隣接する小郡町の県光友会館を建設したのである。
 そして、昭和四九年、「般若」という生命の智慧=仏智=が生かせれた、人間勉強道場自然の泉の福祉の理想郷「般若の里」の建設に踏み切ったのである。「般若」とは、何か―。それは仏智のことであり、仏の智慧が生かされた福祉の理想郷という意味なのだ。
 言うまでもないことだが、自然の泉には一切の束縛も強要も、差別もない。「般若の里まごころは決して無理をしてはいけない」と常に訴え続けており、また、毎月発行の自然の泉紙にも「承諾のない無理なまごころは受け付けません」と明記している。
 自然の泉に新しく入られた人が、親声開説講演を聞かれて「前途に希望が湧いた」とか「救われた」と思われた方は、人間勉強を続けてください、と説明している。
 救いがたしこの身、救われてここにある。
 自分の力で生きていると思うから不満が、迷いが出る。自分の力であって、自分の力ではない。生命の力、周囲の力、生かされて生きている感謝と喜びに目覚めよ。
 たとえば、神社や仏閣に、なぜ石段があるのだろうかと、考えたことがあるだろうか。日常の生活でも物事の運び具合や開け方などを「だんだん(段々)」と表現するように、神社や仏閣の石段は、一歩一歩の大切さを、人間に教えてくれているのだ。ともすれば人間は、修行とか修練というと、何か特別なものだと考えがちだが、そうではない。一歩一歩と石段を踏みしめ、段々と確実に上っていくように、人間の修行や修練の場は毎日の生活、暮らしのなかにある。日々の生活や仕事、勉学、人間関係の中に「行」は生きている。
 ややもすると結果や結論を性急に求めるあまり、自己中心的で身勝手な考えに偏り、自分の考えが入れられないからといって不平、不満、不信の思いをつのらせてはいないか。石段でも、他人より早く上りたいと思って一段ずつ飛ばしていけば、踏みはずしてケガをするかもしれない。また途中で息が切れ、疲れて立ち止まってしまうではないか。だから「だんだん(段々)」なのである。
 禅の教えに「歩歩是道場」という言葉がある。人間は、二本の足で歩く。その踏み出す一歩一歩、言動の一つ一つが、すべて「行」だという意味である。今日、ただ今、この場にあって精一杯の誠と努力を尽くす。人間の一生は人間勉強にあり、人生は行なり。
 一歩、一歩の歩みに「だんだん(段々)」と胸中の宝石=仏性=の苔が洗い流され、輝いてくる。人生はやっぱり間違いなく,心である
これさえわかれば"幸せ"だ。
 今日あって明日なき身の覚悟 永遠の命を信じ 心丈夫に快活に生きる